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なぜ正確に情報を伝えても、顧客は動かないのかーー受け手の脳が「都合よく書き換える」メカニズム

なぜ正確に情報を伝えても、顧客は動かないのかーー受け手の脳が「都合よく書き換える」メカニズム
Update

この記事でわかること

  1. 伝わらない原因が「表現力」ではないという視点
  2. ターゲットの脳内で情報が書き換えられるプロセス
  3. 人物理解に「欠点」の視点を持ち込む意味
本記事は企業の広告・ブランド担当者に役立つ本から、気になる一節を数回に分けてご紹介する連載です。読みながら、その本の“考え方”に少しずつ触れていただけます。

「伝わるはずのメッセージが届かない」ーーその原因は表現力ではなく、受け手の脳の仕組みにあるかもしれません。本書はカズオ・イシグロ『日の名残り』の執事スティーブンスを例に、人が自分の都合よく現実を書き換える「コントロール理論」を解説します。顧客やターゲットへのコミュニケーション設計を考えるうえで、受け手の脳がどう動いているかを知るヒントになります。


~本コンテンツは、書籍『ストーリーテリングの科学』(ウィル・ストー著、府川由美恵訳・フィルムアート社刊)から一部を抜粋・編集したものです(この記事は第1回/全3回)。

No.2:人の性格は「育った環境」と「持ち物」に現れるーーブランドコミュニケーションに使える人間理解の視点(8月12日公開予定)

No.3:「誰の視点で語るか」で、伝わり方は変わるーー文化によって響く物語が異なる理由(8月13日公開予定)


カズオ・イシグロの名高い小説『日の名残り』には、スティーブンスという名でしか呼ばれない大邸宅の誇り高い執事長が登場し、読者は彼の歪んだ欠点だらけの神経領域へといざなわれる。自分の世界とそのコントロール方法の中核となるスティーブンスの信念は、驚異的な能力を持つ執事だった父親、スティーブンス・シニアから受け継がれたものだ。息子のスティーブンスは自分の職務に情熱を燃やし、父や、父と同じように偉大な執事たちの「特別な資質」について思いをめぐらせる。「品格」の鍵となるのは「感情の抑制」だと彼は考える。イギリスの風景の美しさが「表面的なドラマやアトラクションのなさ」によって引き立つのと同じで、偉大な執事は「外部の出来事にはーーそれがどれほど意外でも、恐ろしくても、腹立たしくてもーー動じ」ないのだと(*1)。

感情の抑制こそ、イギリスで最高の執事が育つ理由だ。「大陸の人々が執事になれないのは、人種的に、イギリス民族ほど感情の抑制がきかないからです(*2)」。大陸の民族、そしてその点ではケルト人も、「少し挑発されただけで上着もシャツも脱ぎ捨て、大声で叫びながら走り回る(*3)」。感情の抑制は、スティーブンスの世界の神経モデル構築において中枢となる概念であり、彼のコントロール理論でもある。それに忠実に従えば、自分の環境を巧みにあやつり、望むもの、つまり有能な執事という評判を手に入れることができる。この誤った信念がスティーブンスを定義づけている。それが彼なのだ。スティーブンスのように、欠点を濃縮した緻密さで自分の内に宿している登場人物こそが、もっとも忘れがたく、親近感を感じさせ、魅力的な存在となれるものなのだ。

イシグロのこの作品は、スティーブンスの誤った現実認識がいかに彼に害をもたらしてきたかを、静かに、しかし残酷に暴きだす。もっとも胸が締めつけられるのは、スティーブンスが屋敷でおこなわれる重要な会合のために指揮を執っている晩に展開される場面だ。屋敷の2階では、長年の務めからついに体を壊して倒れた老父が、ようやく意識を取り戻したところだ。職務に没頭していたスティーブンスは、父に会うよう説得される。事態の深刻さを察したのか、スティーブンス・シニアは、感情の抑制という自分の鉄鎧を捨て、自分が良い父親だったことを願うと息子に伝える。息子はぎこちなく笑うしかない。「父さんの気分がよくなって、何よりです(*4)」と息子は言う。父は息子に、おまえを誇りに思うと伝える。そしてさらにこう続ける。「お前にとっても、わしがよい父親だったならいいが……。そうではなかったようだ(*5)」

「父さん。いま、すごく忙しいのです。また、朝になったら話しにきます(*6)」と息子は答える。

その夜遅く、スティーブンス・シニアは卒中を起こす。彼は死の淵に立たされた。息子はふたたび父に会うよう説得されたが、またしても仕事に戻らなければならないと言い張る。階下では、彼の雇い主のダーリントン卿が異変に気づく。「なんだか、泣いているように見えたぞ(*7)」と彼は言う。スティーブンスは慌てて目尻を拭い、笑ってみせる。「申し訳ございません。今日一日の緊張のせいだと存じます(*8)」。その後まもなく父は亡くなるが、スティーブンスはそのときも多忙で付き添えなかった。「父も、いま私に任務を果たしてもらいたいと望んでいるはずです(*9)」と彼はメイドに言う。そして、それが正しいことに疑いを抱きもしない。

この一連の場面の素晴らしさーーその心理学的な真実味ーーは、スティーブンスにとってはこれが恥ずべき後悔の記憶ではなく、勝利の記憶であるということだ。実際、イギリスでもっとも偉大で品格ある執事の殿堂に列せられたいと思うのなら、これは彼の売り文句となる。「悲しい思い出にもかかわらず、今日、私はあの夜を振り返るたびに、いつも大きな誇らしさを感じるのです(*10)」とスティーブンスは言う。彼の幻影的な現実モデルは、感情の抑制を重視する価値観を中心に成り立っていた。それは、人がいかに世界をコントロールするべきかについての彼の脳の理論の、核心にあるものだった。そして少なくともスティーブンス自身は、それを見事にやり抜いた。

スティーブンスの神経世界は歪んでねじ曲がっていたが、それでもミスター・Bと同じく、彼もそれが完全に正しいことを示す根拠を周囲のいたるところで目にしていた。スティーブンスの現実モデルとそのコントロール理論は、結局のところ機能していたのである。感情の抑制の神聖な価値を信じていたからこそ、スティーブンスはキャリアと地位を築き、父親を失う痛みから自分を守ることもできた。イシグロの小説は、人の欠点とその副次的影響についての、真実の探求だーーサルマン・ラシュディも言うように、これはスティーブンスがいかにして「自分の人生を築き上げてきた信念によって破滅させられた」かという物語だ。

神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、「人間を真に描写するための唯一の方法は、その不完全さを描写することだ」と述べている(*11)。われわれが物語や人生で出会うのは、まさにこの不完全な人間だ。ただし人生とは異なり、物語は人々を登場人物の心の中に招き入れ、理解させることができる。超社会的に飼い慣らされたわれわれ人間にとって、他者の因果関係、つまり人がそのような行動をとる〝理由〟ほど興味をそそるものはない。とはいえ、物語が与えてくれるのはそれだけではない。頭蓋骨の真っ暗な円蓋に、自分の幻影的宇宙の孤独に永遠に閉じ込められている人間にとって、物語とはちがう世界へのポータルであり、幻影の中に存在する幻影でもあり、そこから脱出できる可能性にもっとも近いものなのだ。

 

*1;カズオ・イシグロ『日の名残り』土屋政雄訳、早川書房、2001年、42頁および61頁
*2;イシグロ『日の名残り』61頁
*3;イシグロ『日の名残り』62頁
*4;イシグロ『日の名残り』140頁
*5;イシグロ『日の名残り』140頁
*6;イシグロ『日の名残り』140頁
*7;イシグロ『日の名残り』153頁
*8;イシグロ『日の名残り』153頁
*9;イシグロ『日の名残り』155頁
*10;イシグロ『日の名残り』161頁
*11;The Power of Myth, Joseph Campbell with Bill Moyers (Broadway Books, 1998) p. 3.[ジョーゼフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房、2010年〕


(この記事は第1回/全3回)

No.2:人の性格は「育った環境」と「持ち物」に現れるーーブランドコミュニケーションに使える人間理解の視点(8月12日公開予定)

No.3:「誰の視点で語るか」で、伝わり方は変わるーー文化によって響く物語が異なる理由(8月13日公開予定)


▼書籍紹介

人は物語によって他者とつながり、ときに対立もしながら、社会を形成してきた。本書は脳科学・心理学の知見をもとに、なぜ人は物語を求めるのか、すぐれた物語はいかに脳を刺激するのかを解き明かす。プロット重視の従来的な物語理論とは対照的に、キャラクターとその〈欠点〉をストーリーテリングの中心に据え、共感を生む物語の仕組みを徹底解剖。小説・映画にかぎらず、マンガ、ノンフィクション、ビジネスシーン、日常の雑談まで、すべての〈物語の語り手〉に読んでほしい一冊。全世界15万部突破。

▼書籍情報

書名:ストーリーテリングの科学 脳と心をひきつける物語の仕組み
著者:ウィル・ストー
訳者:府川由美恵
出版社:フィルムアート社
発売日:2025年12月26日
https://www.filmart.co.jp/books/978-4-8459-2414-1/


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文・編集:桑原勲

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