「誰の視点で語るか」で、伝わり方は変わるーー文化によって響く物語が異なる理由

この記事でわかること
- 同じ訴求がグローバルで通じない理由
- 語り手の視点がメッセージの届き方を変える仕組み
- 西洋と東洋で響く物語構造のちがいと使い分け
本記事は企業の広告・ブランド担当者に役立つ本から、気になる一節を数回に分けてご紹介する連載です。読みながら、その本の“考え方”に少しずつ触れていただけます。
同じ内容でも、「誰の視点で語るか」によって、受け手の入り込み方は変わります。本書は、読者が物語に入り込む入口が「視点」であることを示し、さらに文化によって響く物語の形が異なる——西洋は個人、東洋は集団に重きを置くーーと解説します。国内外に向けたブランドコミュニケーションを考えるときの手がかりになります。
~本コンテンツは、書籍『ストーリーテリングの科学』(ウィル・ストー著、府川由美恵訳・フィルムアート社刊)から一部を抜粋・編集したものです(この記事は第3回/全3回)。
No.1:なぜ正確に情報を伝えても、顧客は動かないのかーー受け手の脳が「都合よく書き換える」メカニズム
No.2:人の性格は「育った環境」と「持ち物」に現れるーーブランドコミュニケーションに使える人間理解の視点
性格と視点
性格が強い力を持つことは確かだが、人間は、内向的、外向的、その他の性格、などと単純に分類できるものではない。人の特性は、文化・社会・経済環境や、個々の経験の影響を受けつつ、自分がその中で生きる独自の神経世界を構築していくものだ。
物語において、自分とまったく異なる精神を持つ人物に突然出会い、その過程で登場人物の性格や物語の展開が明らかになっていくのは、これ以上なくスリリングな体験だ。主人公の視点が、物語の中でわれわれを方向づけてくれる。それは手がかりの地図であり、主人公の欠点や、彼らが生みだそうとしているプロットについてのヒントであふれている。フィクション作品において、このことはもっとも過小評価されている要素だと私は考えている。完璧で無邪気で、人の形をしただけの取るに足らない存在に、多少のひねりがひとつかふたつ加えられた単なる輪郭線のような登場人物が、プロット上の出来事に色づけされるのを待っているところから始まる小説や映画は大量にある。それよりも、欠点はあるが魅力的で具体的で、リアルな心を持った人物やその人生に、気づけば自分も最初のページから引き込まれ、驚きや興奮を覚えるほうがずっといい。
チャールズ・ブコウスキーは、小説『郵便局』の冒頭で、このことを見事に表現している。
最初は勘違いから始まった。
クリスマスの時期で、おれは丘の上の酔っぱらいから聞いた。やつは毎年クリスマスにこの仕事をやってたんだけど、ほとんど誰でも雇ってもらえるらしい。だからおれも出向いて行って、気づいたら革の鞄かばんを背負って、暇なときに歩き回ってた。なんて仕事だ、おれは思った。楽勝だ! 一、二地区しかやれとは言われなかったし、やりおおせたら、本職の郵便配達が別のどの地区で配ればいいか教えてくれる。あるいは、局に戻ると局長が別の地区を教えてくれる。でもただ時間をかけて、郵便受けの口にクリスマスカードを押しこんでればいい(*1)。
『郵便局』の舞台となるブルーカラーの街ロサンゼルスからはまるでかけ離れた、ロンドン北部のクリックルウッド・ブロードウェイで、47歳のアーチー・ジョーンズが自殺を図る場面から始まるのが、ゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』だ。「コーデュロイの服を着て、排気ガスの充満する自分の車、キャバリエ・マスケッティーア・エステイトのなかで両のこぶしに握りしめているのは、軍隊でもらったメダル(左)と結婚許可証(右)。過ちもいっしょに持っていこうと決めたのである。アーチーは入念な計画を立てるほうではない─遺書とか、葬儀の指示とかーーややこしいことはいらない。ただ、わずかばかりの静寂がほしいだけだ。集中できるように、ちょっと静かにしていてくれたらそれでいい。店が開く前に片をつけてしまいたかった(*2)」
優れた現代小説は、物事や出来事を神のような視点から描くのではなく、登場人物独自の観点から描いていることが多い。人生と同じで、われわれが遭遇するものはすべて、客観的な外面的現実ではなく、登場人物の内部にある神経領域の構成要素だーーすなわち、どれほどリアルに見えようとも、その人の頭の中にしか存在せず、それ自体がまちがったものでしかない、コントロールされた幻影なのだ。フィクションにおいては、すべての状況描写は登場人物の状況描写として機能すると言っても過言ではないだろう。
ジェームズ・ボールドウィンの小説『もう一つの国』で、1950年代のアメリカで生きのびようとする不遇のアフリカ系アメリカ人ルーファス・スコットが、ハーレムのジャズ・クラブに足を踏み入れる場面は衝撃的だ。ステージで演奏するサックス奏者の描写は、スコット自身、スコットの世界、それをコントロールしようとするスコットのままならない日々に関する情報だけでなく、彼が目にしているミュージシャンについての情報も、生き生きと伝えてくるのである。
彼は両脚を大きく開いて舞台に立って、背をまるめ、巨大な胸をふくらまし、二十何年かの苦闘を偲しのばせる身体を震わせながら、サキソフォンを吹いて、愛シテクレルカ?愛シテクレルカ?愛シテクレルカ?と絶叫した。続いてまた、愛シテクレルカ? 愛シテクレルカ? 愛シテクレルカ?ーーすくなくともルーファスの耳にはそう問いかけているように聞こえたのだ。同じことばが、青年の力のかぎりを傾けて、やりきれないまでに、いつまでも、さまざまな色調をたたえてくり返された。それにしてもその問いかけはすさまじく、なまなましかった。彼は、胸いっぱい、腹いっぱいに、その長からぬ過去の思いを吹いていた。その過去のどこか、どん底の暮しのなかや、徒党を組んでやったけんかやいたずらのなかで、あるいは、すこしのゆとりもなかった家のなかや、精液でこわばった毛布の上や、マリハナやヤクの陰や、アパートの地下室の小便の臭いの下で、彼はけっして瘉いえることのない打撃を与えられたのだ。そしてそのことをだれもが信じたくなったのだ。愛シテクレルカ? 愛シテクレルカ? 愛シテクレルカ(*3)?
文化と登場人物ーー西洋の物語VS東洋の物語
現実世界の人間やフィクションの登場人物が、欠点のある特異な人間となるもうひとつのルートとして、文化がある。〝文化〟と言えば、オペラや文学、ファッションのスタイルなど表面的な現象としてとらえられることが多いが、実のところ、それらは人が持っている世界モデルに、じかに深く組み込まれている。幻影的な現実を構成する神経機構の一部を、この文化が形作っているのだ。文化は、われわれの経験する人生という名のレンズを歪めたり狭めたりして、強力な影響力を及ぼす。人がそのために闘い、命を賭けて守ろうとする道徳規範を規定するのも、美味しいと感じる食べ物の種類を決めるのも、この文化だ。日本人はハチの幼虫から作られる珍味〝蜂の子〟を食べる。パプアニューギニアのコロワイ族は人肉を食べると言われている。アメリカ人は年間100億キログラムの牛肉を消費するが、牛を神聖視するインドでは、ステーキサンドを食べただけで自警団に殺されることがある。正統派ユダヤ教徒の妻は、下劣な男にたとえわずかでも魅惑的な髪を見せないよう、頭を剃ってかつらをかぶるしきたりになっている。エクアドルのワオラニ族は、ほとんど何も身につけず生活する。
環境をできるだけコントロールするためにはどんな人間になるべきか、脳が次々と考えていかなければならない幼年時代のうちに、こうした文化的規範も生活のモデルに組み込まれていく。0歳から2歳のあいだ、脳は毎秒およそ180万の神経結合を生成する(*4)。この順応性、もしくは〝可塑性〟が高まる状態は、思春期後期から成人初期まで続く。脳は遊びからも学習する。イルカ、カンガルー、ネズミなどのたくさんの動物が、ルールに基づいた楽しい探索的交流をおこなっている。だが、家畜化され、コントロールを学ばなければならない複雑な社会環境で生きる人間にとって、遊びの重要性はそれ以上に高い。人間の幼少期が非常に長い主な理由はここにある(*5)。
人間は、ゲームから教育、そしてストーリーテリングにいたるまで、さまざまな遊びの形式を進化させてきた。ストーリーテリングも含め、通常、遊びは大人が監督するものである(*6)。何が正当で何が不当か、何に価値があり何にはないか、人はいかにふるまうべきかを大人が子どもに伝え、自分たちの文化モデルに従って行動したか否かによって罰や褒美が与えられる。保護者は子どもに道徳的な物語を読み聞かせるばかりでなく、物語のメッセージを強調するために、独自の語りを加えたりもする。遊びは社会的な心の形成に不可欠だ。反社会的的殺人犯のバックグラウンド調査によれば、彼らの90%は幼少期の遊びの体験が極端に少ない、もしくは、サディズムやいじめなど異常な遊びの体験があり、それ以外に顕著な共通項が見られなかったことは注目に値する(*7)。
文化の多くがその人のモデルに組み込まれ、神経領域が調整され特化されるのは、生まれてから7年のあいだとされる(*8)。西洋の子どもたちは、約2500年前の古代ギリシャで生じた個人主義文化の中で育つ。個人主義者は個人の自由を崇拝し、世界は個々の断片や部分から構成されていると認識する傾向がある。これが一連の特殊な価値観を生みだし、われわれが語る物語にも強い影響を与えている。個人主義は古代ギリシャの地形的背景から生まれた思考様式だと考える心理学者もいる(*9)。古代ギリシャは岩が多く起伏のある海岸沿いの土地で、農業などの大規模な集団活動には適していなかった。生きるためには、なんらかの商売、つまり皮なめし、狩猟採集、オリーブオイル生産、漁業など、小さな事業を営む必要があった。古代ギリシャにおいて世界をコントロールするには、自立するのが最善策だったのだ。個人の自立が成功の鍵となれば、万能の人間になることが文化的理想となる(*10)。古代ギリシャ人は、個人の栄光や完成や名声を求めた。個と個の伝説的競争の場であるオリンピア祭典競技を考えだし、50年にわたって民主主義を実践した。自己への固執が強くなるあまり、厄介な自己愛の権化であるナルキッソスの物語で、その危うさを警告せざるを得なくなるほどだった。個人という概念がおのれの力の中心に置かれ、暴君や運命や神々の気まぐれの奴隷にされることなく、自分の望む人生を自由に選べるという考え方は革命的だった。心理学者のヴィクター・ストレッチャー教授は、この概念が「因果関係についての人々の考え方を変え、西洋文明の先駆けとなった」と述べている(*11)。
この、押しが強く自由を愛する自己を、東洋で生まれた自己と比較してみよう。古代中国のうねるように広がる肥沃な土地は、大規模な集団活動にはうってつけだった。生きるためには、広い範囲にまたがって小麦や米を育てる共同体の一員になるか、大がかりな灌漑事業に関わるかだった。こうした場所で世界をコントロールするには、個人よりも集団の成功を確保することが最善の方法だったのだ。つまりは、つねにおとなしくして、チームプレーヤーに徹することが求められる。こうした集団的コントロール理論は、集団的な理想の自己につながっていった。『論語』の中で、孔子は「優れた人」とは「自分を誇らず」、むしろ「徳を隠す」ことを好む人であると言ったとされている。こうした人間は「友好的な和を育み」、「平衡と調和の状態を完全な形で存在させる」のだと。7000キロも離れた場所に出現した押しの強い西洋人と比べると、まったく異なる理想像だ。
古代ギリシャ人にとって、コントロールの主役は個人だった。古代中国人にとっては集団だった。ギリシャ人にとっての現実は、個々の断片や部分で構成されていた。中国人の現実は、相互に結びついた力の場だ。このような現実体験のちがいから、異なる物語形式も生まれている。ギリシャ神話は通常、アリストテレスが言うところの「始まり、中間、終わり」(危機、闘争、解決と表現したほうが適切かもしれない)の3幕構成になっている。ひとりの英雄が恐ろしい怪物と戦い、宝物を手にして帰還するという物語が多い。
これは個人主義のプロパガンダであり、ひとりの勇敢な人間がすべてを変えることができるという考えを発信しているとも言える。このような物語のアウトラインは、西洋の子どもたちの自己の芽生えに、驚くほど早くから影響を与える。自分で作った物語を語るよう研究者に求められたアメリカ人の3歳の女の子は、危機、闘争、解決という流れの物語を完璧に紡いでみせたという(*12)。「バットマンがママから離れました。ママは「戻ってきなさい、戻ってきなさい」と言いました。バットマンは迷子になり、ママはバットマンを見つけることができません。バットマンはこんなふうに走って家まで帰りました。バットマンはマフィンを食べ、ママのひざに座りました。それからバットマンは休みました」
古代中国の物語はこんなふうではない。他者中心の世界であるがゆえに、中国には2000年にもわたって自伝というものが事実上存在しなかった(*13)。ようやく自伝が出てくるようになっても、主人公の声や意見は人生の物語から削られているのが普通で、主人公は自身の人生の中心ではなく、傍観者の立ち位置に置かれた。東洋の小説は、因果関係という単純なパターンをたどるよりも、芥川龍之介の『藪の中』のような形をとることが多かった。この作品では、殺人事件にまつわる出来事が、複数の目撃者ーー木こり、僧、放免(下級刑吏)、老女、容疑者、被害者の妻、そして被害者の言葉を伝える霊媒師ーーの視点から語られる。どの証言も相互になんらかの矛盾があり、読者は彼らの目的を自分で解明しなければならない。
心理学者のキム・ウイチョル教授は、こうした物語では「答えが示されることは決してない。結末もない。めでたしめでたしともならない。読者は疑問とともに取り残され、自分自身で答えを出さなければならない。それが物語の醍醐味だ」と述べている(*14)。東洋の物語で個人にフォーカスが当たる場合、主人公のステータスは適度に集団を優先する形で得られる傾向がある。「西洋では、主人公が悪と闘い、真実が勝利をおさめ、愛がすべてに打ち勝つ」とキムは言う。「アジアでは、自己犠牲を払う人が英雄になり、英雄は家族、共同体、国のことを大切にする」
起承転結と呼ばれる日本の物語形式は、4幕構成になっている。第1幕(起)で登場人物が紹介され、第2幕(承)で動きが展開し、第3幕(転)では意外な驚きの展開もしくは一見無関係な展開が起き、そして最終幕(結)に来ると、読者はオープンエンド的な形ですべてが調和する道を探るよう促される。「東洋の物語で混乱を呼ぶ点のひとつは、エンディングがないことだ」とキムは言う。「人生には単純で明確な答えはない。答えは自分で見つけなければならない」
西洋の人々は、個人の闘いと勝利の物語を神経モデルの領域に取り込んで楽しもうとするのに対し、東洋の人々は、調和を求める物語に喜びを感じる。
こうした物語の形式は、各文化における変化のとらえ方のちがいを反映している。西洋人にとっての現実とは、個々の断片や部分から構成されたものだ。予期せぬ変化の脅威が迫ってくると、西洋人は現実の断片や部分と闘ってそれらを服従させ、再コントロールしようとする傾向がある。東洋人にとって、現実とは相互に関連した力が存在する場だ。予期せぬ変化がやってくると、混乱した力を調和させて共存させるにはどうすればいいかを知ることで、コントロールを取り戻そうとする傾向がある。両者に共通するのは、物語が持つもっとも深い目的だ。物語はコントロールのための教訓を教えてくれるのである。
*1:チャールズ・ブコウスキー『郵便局』都甲幸治訳、光文社、2022年、9頁
*2:ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』上巻、小竹由美子訳、中央公論新社、
2021年、11-12頁
*3:ジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」「愛蔵版世界文学全集45』所収、野崎孝訳、集英社、1973年、9-10頁
*4:The Social Animal, David Brooks (Short Books, 2011)p.47.【ブルックス『あなたの人生の
科学』
*5:The Self Illusion, Bruce Hood (Constable and Robinson, 2011) p. 22.
*6:Brain and Culture, Bruce Wexler (MIT Press, 2008) p.134.以下も参照。“Explaining the
moral of the story', C. M. Walker & T. Lombrozo, Cognition, 2017, 167, pp. 266-281.
*7:A History of Children's Play and Play Environments, Joe L. Frost (Routledge, 2009) p. 208.
*8:The Construction of the Self, Susan Harter (Guildford Press, 2012) p. 50.
*9:The Geography of Thought, Richard E. Nisbett (Nicholas Brealey, 2003).[リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人森を見る東洋人ーー思考の違いはいかにして生まれるか』村本由紀子訳、ダイヤモンド社、2004年〕こうした考えの詳細な探求は、私の著書『自撮り(Selfie)』(Picador, 2017)の第2章「完全にすることができる自己」でもおこなっている。
*10:こうしたちがいは現在でも広く残っている。アジア人の学生に水槽が描かれている漫画を見せ、そのサッカードをミリ秒単位で追跡すると、彼らは無意識に全体をざっと見るが、西洋人の学生は、前のほうにいる、支配的で個性の強い、あざやかな色の魚に焦点を合わせる。何を見たのか訊ねると、アジア人学生は状況の説明(「水槽を見た」)から始めることが多いが、西洋人学生は個別の対象の説明(「魚を見た」)から始める傾向がある。その魚についてどう思ったか訊ねると、西洋人学生は「あの魚がリーダーだった」と答えるのに対し、東洋人学生は、その魚がグループから除外されているので、何か悪いことをしたのかもしれないと答えた。
このような文化の差異が、根本的に異なる人生、自己、物語の経験を生みだす。知り合い全員との関係の“ソシオグラム”を描くように言われると、西洋人は自分のことを中央に大きく描いた円で表現するが、東洋人は端寄りの小さな円として描く傾向がある。
中国では、西洋とは異なり、謙虚で勤勉な学生が人気があり、内気さはリーダーシップの資質と見なされる。こうした差異は神経モデルに端を発し、人の現実認識をコントロールする。「世界についての考え方が、単に東洋人と西洋人ではちがうというだけではない。両者は文字どおり、異なる世界を見ているのだ」と、心理学者のリチャード・二スペット教授は私に語った。一方が、他方には明白に見える道徳的現実を認識していないのだから、これは深刻な対立を引き起こす可能性がある。「中国人は、集団全体の利益になるなら、誰かを不当に罰するという考えも喜んで受け入れる」とニスペットは述べている。「個人の権利を重視する西洋人にとっては、これは憤慨すべきことだ。しかし、彼らにとって集団こそがすべてなのだ」
*11:Life on Purpose, Victor Stretcher (Harper One, 2016) p. 24.〔ヴイクター・J・ストレッチャー『目的のカー幸せに死ぬための「生き甲斐」の科学』松本剛史訳、ハーバーコリンズ・ジャバン、2016年〕
*12:The Storytelling Animal, Jonathan Gottschall (HMH, 2012) p. 33.
*13:The Autobiographical Self in Time and Culture, Qi Wang (Oxford University Press, 2013) pp.46,52.
*14:本人へのインタビューによる。
(この記事は第3回/全3回)
No.1:なぜ正確に情報を伝えても、顧客は動かないのかーー受け手の脳が「都合よく書き換える」メカニズム
No.2:人の性格は「育った環境」と「持ち物」に現れるーーブランドコミュニケーションに使える人間理解の視点
▼書籍紹介
人は物語によって他者とつながり、ときに対立もしながら、社会を形成してきた。本書は脳科学・心理学の知見をもとに、なぜ人は物語を求めるのか、すぐれた物語はいかに脳を刺激するのかを解き明かす。プロット重視の従来的な物語理論とは対照的に、キャラクターとその〈欠点〉をストーリーテリングの中心に据え、共感を生む物語の仕組みを徹底解剖。小説・映画にかぎらず、マンガ、ノンフィクション、ビジネスシーン、日常の雑談まで、すべての〈物語の語り手〉に読んでほしい一冊。全世界15万部突破。
▼書籍情報
書名:ストーリーテリングの科学 脳と心をひきつける物語の仕組み
著者:ウィル・ストー
訳者:府川由美恵
出版社:フィルムアート社
発売日:2025年12月26日
https://www.filmart.co.jp/books/978-4-8459-2414-1/
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文・編集:桑原勲


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